ミコアイサー光と影のシンフォニー

春の気をはらんだ冬の低い太陽の光が「じゅん采池」を温かく照らして「光と影のシンフォニー」を奏(かな)でています。

ミコアイサは、その舞台に溶け込んで、まるで「春を呼ぶ妖精」のように、幽玄(ゆうげん)の暗闇(くらやみ)の中に佇(たたず)んでいます。

住宅地に囲まれた「じゅん采池」は、この場所だけ時間をとめて、すべてを飲み込むブラックホールのように、私たちを吸い込んでいきました。

道元禅師(どうげんぜんじ)著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」「有時(うじ)」の巻の中に、時間論に関わる有名な言葉があります。

 いはゆる有時は、時(じ)すでにこれ有(う)なり、有はみな時なり。

 いわゆる有時というのは、時(時間)がすでに有(存在)であり、有はみな時なのです。

時間は、移ろい行く抽象ではなく存在そのものなのです。ミコアイサは時間であり、じゅん采池も時間です。


はっと気づくとミコアイサは水にもぐって姿を消し、そこには、光の波紋だけが残っていました。



「梅が香に のっと日の出る 山路かな」     (松尾芭蕉


意訳:山道を歩いていると、梅の香りにさそわれて、太陽がのっという感じで顔を出した。